「ほんとうの構造主義 言語・権力・主体」
構造主義を学び直そうと思って買ったこの本が、まさか「私とは何か 「個人」から「分人」へ」に繋がるとは思っていませんでした。私にとってよい本とは、このように既に読んだ本と連関したり、新たに読むべき本との連関を生み出したりするものです。よい本との出会いは、(あくまで私にとって)よい人との出会いと類似しています。
他者や世界に対して謙虚になるということは、自己を前面におし出さず一歩身をひくこととも言えようが、自己の領分を独占せず自らで充満させないことと表現してみせるなら、それは自己を縮約させ、今まで自己が占めていた領分に余白をつくり、他者、生命、世界を受け入れるということであろう。個人が、というより集団や社会がこのようなあり方を示す場合を、レヴィ=ストロースにちなんで「アントロポファジー」(人間を喰うこと)の慣行をもつ社会と呼ぼう。
逆に、脅威となる存在を社会から外へ追い出そうとするのがアントロペミー(人間を吐くこと)の社会である。
このように定義したうえで、ストラザーンや平野啓一郎の「分人」を、個が前提とされており個を乗り越えていないと述べています。
正直、そのように線を引くべきか否かを考えることは形而上学的であるように思われ、私の興味外ですが、最近読んだ本がレヴィ=ストロースの構造主義に改めて繋がったことはとても嬉しいことでした。
改めて学び直してみてわかったことは、私はレヴィ=ストロースの構造主義には強く惹かれるものの、構造主義と一括りにされるもの全てに興味があるわけではないということです。
バルトを取り上げている第十章と、ラカンを取り上げている第十一章は読むのがしんどかったです。
一方で、第五章で取り上げているマグリットの絵はとても興味深いもので、久しぶりに絵を見に行きたいと思いました。
また終章で、量子論と繋がったのも意外であり嬉しい発見でした。引用されている「満開の栗の木」も早速購入しました。