「リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義」
ウイルス禍の中、政府が政府がとあまりに騒々しいのに日々嫌気がさしているので、リバタリアンについて知りたくなり、kindle版で読んでみました。リバタリアンの個々の主義主張について深く掘り下げた本ではありませんが、概観するにはよい本でした。
リバタリアンは、自由市場・最小国家・社会的寛容を重んじるという点では共通しているものの、様々なバリエーションがあるようです。米国の有権者に占めるリバタリアンの割合は10~12%と推定されるものの、第三党であるリバタリアン党の連邦議員は米国でも皆無。日本はといえば、リバタリアンは見る影もありません。
自由主義・最小国家・社会的寛容を重んじるリバタリアンは、経済的には「保守」、社会的には「リベラル」の立場をとるが、日本ではこうしたイデオロギーの象限は存在しないに等しい。経済的に「小さな政府」を志向しながら、社会的には愛国心(集合的アイデンティティ)に訴える場合が多い。逆に、社会的には国家権力の介在を警戒しつつ、経済的には「大きな政府」を是認する場合も多い。
今の日本はまさに後者で、それが私にとってはとても気持ちが悪いのですが、著者の次の記述が私の気持ち悪さを言い当てているように思います。
貧困や弱者への支援を含め、私たちは往々にして現実社会における「影」や「負」への対応を政府に丸投げしてはいないか。そして、政府を批判することで私たち自身の「他者への責務」から逃れ、自らを道義的高みに置こうとしてはいないか。他社への想像力を取り戻すうえでも、政府の役割や権限について根本的な再考を促すリバタリアンの試みには価値がある。
加えて、特定の集合的アイデンティティや価値基準を個人に強要しないリバタリアンの姿勢にも共感を覚える。これは一見、当然のことかもしれないが、他者を自己の目的達成の道具のごとく扱う論理や力学が跋扈する現代世界にあっては、決して必然とはなっていない。
では私が社会的寛容の立場を取れるかというと、難しいと感じています。特に、個人の自由な移住を支持することから不法移民を容認しつつも、彼らの福祉のための税金投入には反対しているという点は、理性的にも受け入れにくいです。小さな国家を志向するということは、当然に低所得者への福祉を制限せざるをえなくなりますが、そうすると治安の悪化につながりません。とすれば、治安を維持するために警察権力を強化せざるをえなくなり、リバタリアンの嫌う大きな政府につながります。そう考えると、イデオロギーとしては移民容認が正しくても、はなから移民は抑制するのが小さな国家に繋がるのではないかと思うのです。リバタリアンが死刑廃止の立場を取るなら、なおさらでしょう。実際、「移民の制限は私的所有権の正当な表現である」と主張するリバタリアンもいるようです。
哲学者アイザイア・バーリンの言う「消極的自由」、即ち「他社に従わないこと」にリバタリアンが積極的であるという点には共感できます。一方の「積極的自由」、即ち「自己に従うこと」に消極的であるという点については大いに考えさせられます。自身が考える自由とは何か、その自由が他者に不当に干渉するものになっていないかを改めて考えてみるよいきっかけになりました。と、ここまで書いてみて、私にとっての自由、というか個人主義の原点は、高校生の頃に読んだ漱石の「私の個人主義」にあることが思い起こされました。いつか改めて読み返してみたいと思います。