「経済成長とモラル」
本書は大恐慌期を除いて、経済成長と社会的モラルの向上に相関が見られることを、アメリカの南北戦争以降の歴史をもとに説明していますが、確証バイアスに陥っているように感じられる箇所が多く、そもそもページ数が多いこともあり、全般的には退屈な印象を受けました。私にとって興味対象外の「第Ⅲ部 将来への展望」は読むのを止めました。「第4章 所得の上昇、個人の態度、社会変化の政治学」の30ページぐらいを読めば、著者の考え方は理解できます。第4章で書かれていることについて、私なりにエッセンスをまとめると次のようになります。
- 過半数が他人より良い生活を送ることは原理上不可能であり、経済成長がもたらすのは過去との比較における生活の向上
- 経済成長下では大半の人々が身近に想起できる過去の基準点と比べて生活の向上を感じられるが、それもいずれは当たり前になり、成長が持続しない限り向上を実感できなくなる
- 大半の人々は利得より損失を重視するため、経済下降期における不満が経済成長期の満足を凌駕しがち
- 経済停滞期において階層間流動性や機会の解放を支持するのは、専ら失うものがない最下層の人々であるため多数派になりえないが、経済成長期においては、大半の人々にとって下方への移動が直ちに損失を意味しないため階層間移動の流動化が受け入れられやすくなる
- 最下層ではないが、半熟練工や小規模自営業者など所得階層の下半分にいる人々の方が、経済停滞期に自己防衛的に反応する
- そうした人々にとっての脅威は、一般的な経済社会的ヒエラルキーでの優越的地位からこれまで排除されていた人々に負けるリスク
- うまく機能しているデモクラシーにおける政治的決定の多くは、比較的少数の有権者が心変わりすることで決定される(臨界質量に達する)
- 社会的態度が一度形成されると、長期間持続する(慣性の法則が働く)
ウイルス禍以後の世界を展望するために、世界大恐慌後の状況を知ろうと本書を入手したのですが、その目的に対しては期待外れでした。極度の経済的逆境において例外的に経済成長期と同様の開放性が見受けられた理由として、ローズベルトの個人的性格や、大恐慌のような極度の危機的状況においては人々が共同歩調を取ることを挙げていますが、情緒的すぎると感じざるをえません。最も肯ける理由は、大恐慌がもたらしたダメージ範囲の広さと深さに関する次の説明でしょう。
(略)もう一つ事態を説明するものは、経済的災厄のもたらした異常なほど広範囲の衝撃であったことも間違いないところである。この場合は、農民ないし工業労働者、中小企業経営者が突出して不運で、他の国民はいつもどおりに日々の仕事に就いているというような情勢ではなかった。全国の労働力の四分の一が一斉に失業状態のとき、そして危機の時期を通じてそれをはるかに上回る数の労働者がいずれかの時点で職のない状態に苦しんでいるとき、人々は、何が起こっているにせよ、自分たちはともにそれを体験しているのだと考える傾向を持つものだ。さらにこの場合、危機の影響力は、人口のうちの労働者層や中間所得層に限定されていたのではなかった。銀行家もその地位を追われ、証券取引業者も摩天楼の窓から飛び降りていたのである。
そのような大恐慌はニューディール政策によって克服されたと高校生の頃に習ったような記憶がありますが、「一九四三年までは失業者は一九二九年より少なくならなかった」と本書で示されており、アメリカが大恐慌から立ち直ったのは、「一九四五年六月に終わる会計年度に政府が支出した九三〇億ドルのうち、軍事費は八三〇億ドルを占めた」ことからわかるように、第二次世界大戦への参戦に伴う巨大な軍事支出によるものであったということができます。そもそもそれこそがローズベルトの参戦の狙いであったという説もありますが、それについてはまた関連書籍を当たってみたいと思います。
現在のウイルス禍は範囲こそ広範であるものの、甚大な損失が生じているのは過去のアメリカの経済後退期と同様、最下層ではないが所得階層の下半分に位置する人々が多くを占めていると見受けられます。そうなると本書で示されている一般的な傾向と同じく、内向きで閉鎖的な方向に社会が進んでいくものと推測されます。それがどれくらい長期化するのか、またどのように立ち直るのか、引き続き考えてみたいと思います。
本書を通じて再確認したのは、結局、私がつねづねそう考え述べているとおり、「貧すれば鈍する」ということです。また、本書の中で引用されていますが、マルクスが「ゴータ綱領批判」で述べているとおり、「自らの労働力以外なんの財産も持たない人間は、どのような社会的・文化的条件においても他人の奴隷にならざるをえない」という残酷な事実です。