「信頼はなぜ裏切られるのか」

この本の主旨は、最終章の中で簡潔に述べられています。
「他者をつねに信頼すれば、平均すると利益が得られるが、それが最良の方法ではない。(略)他者を信頼したいという意欲とともに、信頼すべきでないときを知ることも必要なのだ。そしてすでに見たように、誰にでもまさにそんな直観的なシステムが備わっており、それは何万年もの時間をかけて進化して世渡りを助けてきた。だが、直観的なシステムは完璧ではない。(略)だからこそ、この世界で幸せを最大にするためには、生まれながらに持っている「信頼のシステム」についてしっかりと理解する必要がある。そのシステムをうまく操縦するためには、直観に主導権を取らせたほうがいいときと、直観による判断を覆すべきときの両方を知ることが重要だ。」

以下、気付きを得られたことを、備忘のために記しておきます。

  • 「人の信頼度を過去の行動から確実に予測することはできない」。「誰かを信頼する際、あの人は信頼できるかと問うべきではない。正しくはこうだ。あの人は、現時点で信頼できるか?」
  • 直観的なメカニズムを指す用語の一つである「ニューロセプション」は、「心に見えるものに応じて生理機能を調節している」という考え方で、「感情の微妙な変化は、人の公平さ、協力の程度、誠実さに直接影響」する
  • 「道徳分子」と呼ばれる「オキシトシンには二面性があり、同類に対する信頼感や支援を促進する一方、よそ者に対する不信感や搾取を増大させる」
  • 子どもは実験や観察だけで、それまでに染み込んだ考えを克服できるわけではないため、「大人以上に他者の発言に頼らざるをえない」
  • 「子どもが自分の教師をどれほど好きかということは、その教師から実際にどれくらい学べたかということとはほとんど関係がな」く、「教師の能力をどれほど信頼できるかということが、習得度と関係があった」
  • 「私たちが嘘つきを見つけ出せる確率は五四パーセントで、コイン投げの的中率とたいして変わらない」
  • 信頼度や実際の誠実な行動を精度よく予測する手掛かりは、「腕を組むこと、体をそらすこと、顔に触れること、手に触れること」
  • 自信のシグナルは、「胸を張った姿勢、頭を上げることなど」
  • 「将来の感情がうまく予測できない原因は、予測の立て方にある。(略)私たちは当の出来事だけに焦点を絞りすぎ、それについて考えている自分の今の感情という文脈も、その出来事を実際に迎える直前に自分が抱いていそうな感情という文脈もないがしろにする」
  • 意志力は「有限な資源のようなもの」で、「ある状況で誠実に振る舞うために(たとえば、目先の利己的な報酬を我慢するために)意志力を使うと、次の状況で誠実に振る舞うのが難しくなる」
  • 「自分に対する揺るぎない信頼は、安定した楽観主義から来るのではない。(略)それは、自分を善良な人間と見なそうとする万人共通の根深い動機に由来する」
  • 「私たちは、自分からの非難も逃れたいのだ。(略)自分の悪い行為について自分を責めようとすると、心が介入して取りつくろう」

以上のような気付きを得られた一方、あまり納得感が得られなかったのは、「第5章 権力と金」で述べられている内容。確かに、他者からの協力を得る必要がないほどに権力や金を手にすればより利己的になる、というメカニズムはある程度理解するものの、一方で「貧すれば鈍する」ことも目にすることは多いし、金持ちであるからこそ目先の利益に執着せず利他的に行動するという例もあるでしょう。所得水準というよりも知的水準に依存しているようにも思われ、そうなると最近は所得水準と知的水準の相関が強くなっているので、金持ちの方が利己的に振る舞わないとも考えられます。

また、子どもは大きくなると誠実さよりも能力に従って信頼するというのも、確かにその通りなのでしょうが、では未熟な子どもが相手の能力の高低を適切に判断できるのか、という疑問があります。これは子どもについてだけでなく、大人においてもそうで、結局、自信のシグナルを発する相手の能力を錯覚することも多いのではないかと思われます。

最終章の最後に、「恥ずかしさや罪悪感」という道徳的な感情を経験させることが、子どもを正直で有能で誠実な人間に育てるために重要であると述べられています。日本人にはこれらが染みついている人が多い(少なくとも過去においては多かった)ので、今日のような国民性になっているのかもしれないと思いました。