「デカルトの誤り」

神経学者による1994年の著作。すらすらと読める本ではないので、読み終わるのに非常に時間がかかりましたし、レビューを書くのにも苦労しています。ただ、間違いなく読む価値がある示唆に富む本ですし、20年以上経っても色褪せていない内容です。

有名なフィアネス・ゲージや、本書中でエリオットと呼ぶ患者の症例から、脳の特定部位(前頭前野)を損傷すると、「正常な知性をもっていながら適切に決断することができない、とくにそれが個人的あるいは社会的な問題と関わっているときに決断できな」くなることが分かり、その意思決定障害は、「社会的知識の欠如によるものでも、その種の知識にアクセスできないからでも、推論の基本的な障害によるものでも、いわんや、個人的・社会的領域での意思決定に必要な、事実についての知識の処理と関係する注意やワーキングメモリの基本的な障害によるものでもな」く、「推論の後半の段階、すなわち選択形成あるいは反応的選択が起きる点、ないしはその近傍ではじまっている」と推測されました。そして同時に、「エリオットの場合、その障害が情動的反応と感情の衰退を伴って」おり、この二つの機能的障害が同時に起こるメカニズムを解明しようとしたのがこの著作です。「要するに、人間の脳にはわれわれが推論と呼んでいる目的指向の思考プロセスとわれわれが意思決定と呼んでいる反応選択の双方に一貫して向けられている、それもとくに個人的、社会的領域が強調されている、システムの集まりがある。そしてこの同じシステムの集まりが情動や感情にも関わっており、また部分的には身体信号の処理にも向けられている」と考えられ、「こういった本質的に異なる役割が、なぜ脳のある限られた領域で合流する必要があるのか」を解明しようと試みています。ここまでが第1部に書かれていること。

第2部の最初の章である第5章では、「知識は本質的に部分化されており、かつイメージに依存している」ことが論じられています。「要するに、インプット部位とアウトプット部位のあいだに位置する脳構造の数はきわめて多く、またそれらの連結パターンの複雑さはとてつもない。そこで当然の問いは、ではそうしたすべての「中間」構造の中でいったい何が起きるのか、そうした複雑さはわれわれに何をもたらすのか、である。それに対する答えは、そこでの活動が、インプット部位とアウトプット部位での活動とあいまって、われわれの頭の中に刻々とイメージを構築し、ひそかにそれを操作しているということである。(略)そうしたイメージをもとに、われわれは初期感覚皮質に入ってきた信号を解釈し、それらを概念として系統立てたり分類したりする。こうしてわれわれは推論や意思決定の戦略を構築する」のであり、「事実とその事実を操作するための戦略の貯蔵庫が、脳のさまざまな部位に「傾性的表象」(略)という形で、言わば冬眠状態、休止状態で保持されている」、「傾性的表象はわれわれの知識の全宝庫であり、そこには生得的な知識と経験によって獲得された知識の双方が包含されている」と著者は考えています。そして、「推論と意思決定に要求される事実に関する知識は、イメージという形で頭に浮かぶ」が、「脳には恒久的などんな画像も存在し得ない」のであって、「これらの心的イメージは一瞬の構築物、かつて経験したパターンの<複製の試み>であり」、「明確に想起される心的イメージは、おもに、かつて知覚的表象に伴う神経発火パターンが生じたのと同じ初期感覚皮質に、同じ発火パターンを一時的、同時的に活性化することから生まれるのではないかと思う。そしてその活性化によって、地形図的に構成されている表象が生み出されるのだと思う」と述べています。「明瞭な意識の中で注意は向けられていないが、ひそかに活性化されている、そんな地形図的に構成されている表象」は、「ひそかに処理されてはいても、こういった表象が思考のプロセスに影響したり、少しあとで意識の中にひょっこり入ってきたりする」ものであり、このようなことがいわゆる隠れ層で行われていると著者は考えているのであろうと思われます。

著者はさらに続けて、「経験により駆動される進化的に新しい脳部位(たとえば、新皮質)にある回路の働きは、心(イメージ)や意識的行動がよりどころにする特定の種類の神経的表象を生み出す上で必要不可欠である。しかし、もし地下に身を隠している旧式の脳(たとえば、視床下部や脳幹)が完全でなかったり協力的でなかったりしたら、新皮質はイメージを生み出すことはできない」のであり、「経験の記録と経験に対する反応の記録は、もしそれらが適応的であるべきなら、生存を最優先に考える有機体の一連の基本的な好みにより評価され、方向づけされなければならない」と主張し、著者の唱える「ソマティック・マーカー仮説」へと展開していくのですが、その内容についてこれ以上は要約するのも評価するのも難解で骨が折れるので、あとは本書をご自身で読んで頂きたいと思います。

経験的に蓄積された「好み」による評価づけ(マーキング)に基づく、隠れ層における推論や意思決定のプロセスというのは、自身の中では絶対的に依拠すべき自らの基盤(ベース)であるかのように感じられますが、さほど確かな根拠に裏付けられたものではなく、意識的に変えることも可能なのではないかと思われたのが、私にとっては新たな発見になったと考えています。もちろん膨大な経験という学習データによって作られたプロセスを自らの意思で変えていくのは容易ではないでしょうが、自身にとって本質的と思われる思考を変化させることも不可能ではないと思うと、年老いてなお生き続ける意味になりうると感じられるのです。