「確信する脳-「知っている」とはどういうことか」

神経学医の著書で、示唆に富む内容でした。とても考えさせられるので、すらすら読める本ではありませんが、こういう本が初版のみで増刷されないのは残念でなりません。以下、備忘のため原文を引用しながら主要なポイントを書き出しておきます。

「本書の核心をなす革新的なその仮説とは、次のようなものだ。
確信とは、それがどう感じられようとも、意識的な選択ではなく、思考プロセスですらない。確信や、それに類似した「自分が知っている内容を知っている」という心の状態は、愛や怒りと同じように、理性とは別に働く、不随意的な脳のメカニズムから生じる。」
「脳の中の位置が比較的はっきりしていて、意識的、認知的な入力なしに容易に再現されるという普遍性の基準を用いるなら、<既知感>やそれに類する感じは、恐怖や怒りと同じく一次的な状態と考えるべきである。」

「意識的な思考と不随意的な<既知感>とが、どのような相互作用をもって私たちに「分かっている」と感じさせるか」については、ニューラル・ネットワークにおける「隠れ層」を用いて説明しており、これもまた本書における重要な仮説となっています。
「隠れ層という用語は、普通はAI研究者のジャーゴンと考えられているが、脳の情報処理に関しても非常に有用なメタファーになる。生物学的なあらゆる要素と、あらゆる過去の体験が、入力情報の処理に影響を及ぼすのは、この隠れ層においてなのだ。この層は、やってくる感覚データと最終的な知覚との間のインターフェースであり、生まれと育ちが交わる実際の交差点でもある。この層の存在こそが、あなたの見る赤が私の見る赤と違い、あなたの思う美しさが私の思う美しさと違い、事故の目撃証言が人によって違い、ルーレットで賭ける数字が人によって違う理由なのだ。」
「意識がどのように生じるかについては今でもまったくの謎だが、概念的に言えば、こうした隠れ層から意識が生じてくるのは間違いない。」
「多くのばらばらの意図が意識の中に同時に現れたなら、心はまとまりのない混乱状態に陥るだろう。考慮すべきあらゆる問題の中で、注意が散漫になってしまう。そうならないよう、すべての意図を同時に意識の中心に持たないようにすると、一部の思考が、意図的でなくただ「浮かんできた」という幻想が生まれる。」

さらに<既知感>が生じる理由については、次のような仮説を提示しています。
「裏づけを持たない<既知感>が、進化に積極的な役割を果たした可能性がある。」
「最初に間違った考えを抱き、それがさらなる探求を促すというほうが、考えることへの誘因がまったくないよりも望ましいのだ。(中略)問題は、その考えが検証されるまで私たちを頑張り続けさせるだけの強力な報酬が必要だということだ。そして、その報酬が説得力を持つには、考えが正しく、証明できると分かったときに得られる感じに近いものとして報酬が感じられなければならない。(中略)ここに、抽象的な思考を意識下で応援するチアリーダーが誕生したのだ。」

こうした仮説に立脚する著者の次のような言説は、とても考えさせるものとなっています。
「自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に見て依存症と似たところがあるのではないだろうか。遺伝的な素因も含めて。(中略)常に決定的な結論を求めるあまり、最悪の依存症患者にも劣らないほど強迫的に追い立てられているように見えることも少なくない。おそらく、実際そうなのだろう。知ったかぶりという性格特性も、快い<既知感>への依存症と見ることはできないだろうか。」
「他人に自分と同じ考えを持たせることができると期待するとしたら、それは、指紋のように各人それぞれ独自の思考プロセスを生み出している生来の違いを克服できると信じているということにほかならない。」

自分の考えが正しいという「確信」を持たずに、また、各人が異なる隠れ層を持つからといって他人に同じ考えを求めずに生きていくことは、人を不安や孤独にし、生物学的特性にそぐわないように思われますが、著者は結論の章で次のように述べています。
「生物学的に言って、確信できる知というものはありえない。私たちは、不確実性の不快に耐えることを学び、子供たちに教えていかなければならない。科学は、可能性の世界の言葉と道具を用意してくれている。各種の意見を分析し、正しい可能性を評価する手段はある。それで十分なのだ。確実性を信じ込むことから生じる破局など要らないし、そんな道を選ぶわけにはいかない。二〇〇四年のノーベル物理学賞を受賞したデイヴィッド・グロス博士の言葉を借りれば、「知識の最も重要な産物は無知」なのである。」