「間違いだらけの学習論-なぜ勉強が身につかないか」

予想していたものとは違いましたが、「知識」の「詰め込み」を安直に批判する風潮に反論しており、これはこれで良い本だと思います。著者は、「理解とは、個別的知識が、接続用知識を介して法則的知識で説明されること、または法則的知識の一事例になることである」という定義をしたうえで、「「応用できない」ことの原因は、「知能や能力や姿勢など」ではなく、その人が持っている「知識」そのものにある」とし、理解したり応用したりできないのは、必要とされる法則的知識や接続用知識を持っていないからであるという立場をとっています。確かに、ある程度先天的に決まると思われる知能や、どのように後天的に育成すればよいかが明確でない姿勢に原因を押しつけるより、断片的な個別的知識を結びつけたり束ねたりするための、接続用知識や法則的知識をきちんと教えることの方が、理解力や応用力を高める上では現実的であるように思われます。

一方で、本書の内容を、私の関心である「大人の学び」にあてはめようとした場合、次の点に難しさを感じます。これらは、子供の教育においても、ある程度あてはまるのではないかと思います。

第一に、法則的知識や接続用知識に関心を持たない人に対して、どのようにそれらを教えればよいのかということです。この点については、「自分が教えようとする知識が、どの領域で、どのように使われるのかを示し、それが有益であると主張する以外には、知識の意義を説明する方法はないのではないか」という著者の主張にある程度は同意するものの、大人に対してそれは決して容易ではありません。

それが第二の難しさで、著者が述べているとおり、「学習内容が、その人の認知構造に合致する時、人は学習しやすい」のですが、その人の認知構造、すなわち「その人が持っている知識の総体」が他人には容易にはわからないということにあります。この点について教える側ができるのは、「自分が使ってみて具合いの良かった知識を学習者に推奨し、それを学習者が使って良ければ採用する」のができることの限度であって、あくまで学習者がそこから学ぶ意思を持ち、かつそれが自身の認知構造に合致する場合に限って、学習されるにすぎません。この点において、かつては芸道や武道における「守破離」が広く学びにおいて重んじられていましたが、現在はそのような姿勢を取れる人が少なく、育成がより難しくなっているように思われます。

最後に三番目の難しさとして、大人が取り扱う高次の問題解決においては、常に正しいとされる法則的知識が存在せず、そのような知識を自ら構築しなければならないことが挙げられます。そして、そのような構造化された知識の必要性を認識していない人が多いように見受けられます。

著者が本書で主張しているとおり、知識にフォーカスした方が現実的であり、子供の教育においてはそれがより重要であることに異論はありませんが、より大人になってからの学習においては、知識に対するある種の価値観が壁になることの方が多いように思われます。一度できあがった価値観を崩そうと思うと、新たな「詰め込み」が必要になりますが、それまでの「認知構造」に合わないため「詰め込めていない」状況を招くというのが、企業の人材育成でも繰り返されているのではないでしょうか。

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